昭和五十七年八月八日 朝の御理解
御理解第八節 「子供の中にくずの子があればそれが可愛いのが親の心じゃ 無信心者ほど神は可愛い 信心しておかげを受けてくれよ」
天地の親神様が、氏子にかけられる切実心だと思います。「どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ」という神の願い、悲しいまでの願い。いわゆる神の悲願である。
私は、御理解八節というこの八節からも感じるんですけれども、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と言うのは、もう広がりに広がっていく、こ、八の字のようになっていくおかげを受けてくれよだと思うです、ね。困った時に頼んでおかげを頂くというようなものだけではなくて、いよいよ信心して・・・教祖が天地の親神様の心をこのように表現しておられる。氏子信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのは、ね。広がりに広がるおかげを受けてくれよという事だと。そこで、屑の子ほど可愛いというような表現で、ま、親子の情をもって、ま、ここに説いてございますが。天地の親神様、私共を氏子としての言うなら、何と言うか、神様と私共との交流であるという事、ね。そういうそのおかげを頂く為に、どういうような、ただ金光様の御信心を頂いておるという事じゃないわけですね。ま、切角お道の信心に御縁を頂いたのですから、ね。広がりに広がっていくおかげの言わば、交流がなされるような信心を頂きたいと思う。
合楽理念は、そういうおかげの頂けれる手だてを説きます、ね。そのためには、ね。成程、親神様じゃなあ、ね。そこにその、親と子との名のりが上げられる一つの情感のようなものがいるんです。教祖様がようもこんなおかげが受けられたと言うて、感動しておられると。神様も、また一緒に感動しておられる。神も一緒に悲しうなると言うような感動をなさっておられる、ね。言うならば、神様と人間氏子がね。こう、交流し合える世界。どういう信心をさして頂いたならば、そういうおかげがまた、神様との本当の意味においての交流が出来るであろうかと、ね。片便の願い捨て的なお願いをした、おかげを頂いたというだけのもんじゃない、ね。
昨日、高松和子先生がお知らせを頂いて、ここにお届けに出て参りました。田植えがしたばっかりの状態、それを上から、まるっきり機関銃のまあ、掃射を受けるような勢いで、何か薬をまいておるという。やはり虫を殺すというか、ね。そういう農薬ですね。農薬をまいておる。それがもう、まるっきり機関銃で掃射をしておるような感じを頂いた、とこう。ところが切角、田植えしたばっかりの田苗が枯れかかってしまう。それは薬なんです。間違いなくね。けれどもそれが、その機関銃で掃射するような勢いでバァーっとこう、薬がきき過ぎたというかね。枯れ上がろうとしておる。そして横に印象的に頂いたのは、トマトと人参を頂いたと言うのです。
皆さん、どうなふうに思いますか。合楽で言うなら、天地日月の心を、ま、あらゆる角度から説かれます。この実験実証以外にないです。合楽は、ね。それがいかに薬と言うても、ね。それを言うならば、それが本当であったと致しましても、ね。それでは、かえって相手を殺してしもたり枯らしてしまうような事になってしまう、ね。これは例えば、親子の場合でもそうです、ね。私の方にも、ま、子供が七人もおりますから、いろいろ様々な事がございました。親として、これは言うて聞かせなきゃいけないというような事もございました。私は、横に人参とトマトがあるという事を、から、ま、ヒントを得たんですけれども。例えば信心を頂いておいて、そげな事でよかかと言いたい事が、これはありましょ。なら、子供なら子供も私共一家を上げて信心しとって、そげな事でよいかと。親の目から見て思うような事があります。からと言うて、なら言うて聞かせるの、それを言うた分では、かえって反発を受けたりかえって、言うならば抵抗したりという事になりかねないのですけれども。ここんところが私は、合楽で言われる天地日月の心という。言うなら、土の心でとか、黙って治める何かて言うものは、もういよいよもって素晴らしいという事がわからなければ、初めの間は、黙って治めるという事は、やっぱ辛いぐらいに辛抱しなきゃなりませんけれども。その辛抱こそが、いよいよ実験が出来る。実証が出来る。実証が出来てくると、あゝ言わんでおって済んだと言う事になってくる。人参というのは、恥ずかしい思いをするという事ですが。あんたが金光教の信心しとって、そげな事でどうするか。世間の人が、どう言いよると思いよるかと。例えば、言うような恥ずかしい思いをするような時であっても、ね。それを言うちゃならん、ね。トマトというのは、あれは大変滋養になるという。そういう思いをする時ほど、心の言うならば、栄養になる事なんだという事です、ね。言うならば、天地日月の心を心とする精進がいよいよなされて、それが有り難うなる、ね。その心と天地の心とが一つになるのです。熱心だから天地と交流するという事じゃないです。どうぞどうぞと言うて願うね。例えば、いろんな修行をしてから、神様どうぞどうぞと言うて願うと言うのは、ね。神様との交流から生まれてくるおかげじゃないです。神様からある場合には、ひったくりように無理言うて頂くようなおかげでは、交流とはいう事になりません。交流する。天地の親神様との間に、言うならば親ぞ、子ぞという情感をもって交流する。そういう交流を見るために、そういう交流を頂くために、ね。例えどんな恥ずかしい思いを。んなら、子供なら子供達の上に、親が恥ずかしい思いをするような事があって、あんた金光様の信心頂いて、そげな事でよいかというのじゃなくて、言い寄ったら、もう、天地の交流はせん。例え、んなら、子供がそりゃ言うことを聞いたところで、もう交流にはならん。切角、交流の手だてがそこにあると思うて、ね。それを黙って治める行き方。天地日月の心をもってそれを頂く時にです。初めて交流する、ね。神様との交流が段々有り難くなってくると、ね。いつも交流しておくような手だてが、次々と、ま、天地日月の心をもってすると頂けてくるようになる、ね。お互いここんところを、ね。一つ抜けなければいけんです。やっぱり、ね。まあ、以前はよく、子供の出来の悪いのは親として、自分の鏡だと言うふうに言うて参りました。けども、そういうふうに思わなくてもね。それは私の心に頂く根肥やしであり、いや、天地の親神様との交流する手だての元になるんだと、いう事になったらこれは、もう大事にしなければおられない。言うて聞かせたからわかっただけでは、わかっただけのおかげ。自分が神様と天地との交流が出来る手だてにはならない訳です、ね。私は昨日、高松先生のそのお知らせを頂いた。例えて言うならば、なら、ま、善導寺の久保山家の方ですけども。久保山家の上にいろいろと、ま、事がございましたよね。先生なんかは、あゝした当時の椛目から帰りがけに自動車事故にあって亡くなられると、ね。高松家に縁について、熱心に御主人も信心をしとりましたけれども、早く亡くなられた。で、親子で細々とと、こういう気持ちだったけども。途端に途端にと言うか、順子さんが、あゝいう身体が動かんようになった。あれだけ熱心な信心しよってと、言うならば世間で言う人もあるかもわからん。金光様金光様と言うてと言うふうに、ま、金光様を笑うような事があるかもわからん、ね。それを一つ一つ、言うなら言い訳するのではなくてです、ね。勿論おかげで、な、親子ともお道の教師にお取り立て頂いて、今修行中でございますけれども、ね。その人参がかえって、トマトとしての、言わば和子先生の心に、いよいよ豊かになるおかげ。いや豊かになるだけではない。一人でに物が出来るようにと言うだけではない。天地との交流の手だてが、今こそ出来ておる時だ、ね。これはもう、合楽で信心するなら、どうでもここのところの体得をさしてもらわなきゃいけません、ね。こここそ天の心で、地の心で、日月の心でといよいよ精進をしていく、その手だてがです。私、今日の御理解頂いて、あゝこれこそ氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、ここのところを頂いてくれよ、わかってくれよだと、こう思うです。そして天地との交流です、ね。がなされるようなおかげを頂いた時に、初めてです、ね。生みなされてくるおかげ、限りないおかげ。いわゆる広がりに広がっていくおかげ。氏子信心して、そういうおかげを受けてくれよ。今、合楽で大坪が、説いておる合楽理念。いわゆる御理念に基づく助かりというのが、そういう助かりなんだぞと、神様が今日は言うておられるような気が致します。だから、そこんところをですね。どうでも一つ体得する。言うならば、そんなチャンスというのは、いつもかつもじゃないでしょうけれども、ね。様々な時に、いろいろな問題を通してです。事柄を通してそれを、天地との交流の手だてと出来るような構え、そういう修行をさせて頂く事に腹を決めますと、その事が、ね。言うならば本当に、ね。これは私の体験ですけれども。子供でも修行生でも御信者の場合でもね。そりゃあ、私の目から見りゃ目に余るような事が、たくさんあります、ね。それを、んならいちいちその、言うて聞かせて分からせられりゃまだいいけれども。それで分からせたのでは、私の心が豊かにはならない。天地との交流と言うことにはつながらない。こちらが天地のような心で、それを受けていくから、天地と同じ心の状態が、こ、開けてきて、ね。天地との交流のルートが段々大きく育っていくのであります。も、これ合楽の修行は、ここに極まったと一つ思うて本気でその信心に取り組んで頂きたいと思うですね。 どうぞ